引退危機から蘇った挑戦者が「僕たち、重里侃太朗」に込めた思い 10.14 王者・山口仁也と因縁の再戦「何が何でもやり返す」

試合情報(日本語)

 14日、東京・後楽園ホールで行われる「ダイヤモンドグローブ」のメイン、日本S・フライ級タイトルマッチは因縁の再戦になる。

 王者でWBA 同級15位の山口仁也(やまぐち・じんや、三迫/25歳、6 勝2KO1分)と日本1位の重里侃太朗(じゅうり・かんたろう、志成/29歳、7勝2KO2分)は昨年10月31日、最強挑戦者決定戦で激突。熱戦の末に引き分けたが、両サウスポーの明暗はくっきりと分かれた。

昨年10月、最強挑戦者決定戦で引き分けた重里(左)と山口

 優勢点で勝者扱いとなった山口。今年4月、空位の日本タイトルを東福岡高校時代の2学年上の先輩・吉田京太郎(ワタナベ)と争うと終盤9回にダウンを喫しながらも小差判定で振り切り、日本タイトル奪取を果たした。

 一方の重里。試合後、控え室の扉越しに山口に声をかけ、「まだ勝負はついてない。また決着をつけよう」と熱い思いを伝えた。「結果は引き分けなんですけど、次に進んだのは山口選手で、次に進めなかったのは僕」。苦い思いを片時も忘れたことはない。

 当初の予定通りなら、再戦が早期に実現するかは不透明だったが、山口が挑戦するはずだった前王者・高山涼深(ワタナベ)が休養を発表し、運命の歯車は動き出した。

 吉田との激闘の代償に山口は左目網膜剥離を発症。手術と療養で試合間隔は空くことになったが、重里は照準を山口だけに合わせ、間に1戦も挟まなかった。プロ初のタイトルよりも「何が何でもやり返してやる、という気持ちが強い」と意気込む。山口もまた「今は自分がチャンピオンでも、立場的には同じイメージ。次こそ白黒はっきりつけて勝ちたい」と決着を望む。

 大阪府泉南市出身の重里。父親の影響で井岡ジムに5歳で入門。小学6年生のときに開かれた第1回大会を含め、U-15全国大会は2度制覇。興国高校時代は2度の国体準優勝、現在は同門の鈴木稔弘、村田昴(帝拳)、保坂剛(三迫)らと世界ユース代表にも選ばれた。

 駒澤大学でも活躍が期待されたが……。「ボクシングはできない」。度重なるケガで医師の宣告を受け、現役を断念せざるを得なかった。曲折の末、トレーナーをしていた仲里ジムから復帰したのは23歳。4戦目で元王者のベテラン・黒田雅之(川崎新田)を破り、脚光を浴びた。

 3年前、さらに上を目指し、子どもの頃からの「ヒーローで、兄貴的存在」の井岡一翔のもとに移籍。あの挑戦権を逃した悔しさは自分だけのものではないという。重里侃太朗を支え、応援してくれる人たち、全員が味わった悔しさを含め、「何もかもすべて返してやる。そのことしか考えてない」とリベンジに燃える。(取材/構成 船橋真二郎)

※「ダイヤモンドグローブ」は14日18時の第1試合開始からFODでライブ配信される。

移籍以来、コンビを組む佐々木修平会長(右)とリベンジを期す

■赤く燃えるのではなく、青く燃える
――プロ初のタイトルマッチであり、因縁の相手との再戦であり、この試合に懸ける気持ちは強いのではないですか。
重里 いや、引き分けという結果でしたけど、次に進んだのは山口選手で、次に進めなかったのは僕なんで。山口選手も悔しい思いをしたかもしれないですけど、現実的に苦い思いをしたのは僕で。立場も入れ替わったし(当時は重里が1位、山口が2位)、実際、次に進んで、今は僕よりも上にいますから。この1年、山口選手のことがずっと頭にあったし、初のタイトルよりも何が何でもやり返してやるっていう気持ちが一番強いですね。

――タイトルよりもリベンジ。
重里 はい。まあ、自分が一番望んだ形ではあるんですけど、いい意味でタイトルに関係なく、あの日の気持ち……僕の気持ちだけじゃなくて、僕を応援してくださってる方々、(佐々木)修平(会長)さんを始め、(井岡)一翔くん、チームにさせてしまった気持ち、何もかもすべて返してやる。そのことしか考えてないですね。

――あの試合後、山口選手に控え室の扉越しに声をかけて、「まだ勝負はついてない。またやろう」と。そのときが来た、ということですね。
重里 そうですね。4月ですか、もちろん山口選手がベルトを獲った試合も見に行ってましたし、山口選手が獲った日からずっと試合モードで。5月(12日)に一翔くんが試合をされた1週間後から単身でラスベガスに行って、スパーリングを4週間させてもらってきて、帰ってきてからもずっとスパーリングをやってきてるんで。最初は8月を見据えてて、(山口の目の手術で)期間は空きましたけど、ここにすべて懸けたかったんで、1戦も挟まずに。

――気持ちも、練習もずっと試合モードで。
重里 いつも(試合の)2ヵ月ぐらい前からスパーリングを始めて、そこから「あ、試合だな」となってくるのが、そんなのもないし、いい意味で力が入り過ぎることもなく、タイトルという意識もなく、ナチュラルなんですよね。いい意味で山口選手のことだけ、10月14日のことだけしか考えてないです。

――この勝負だけに集中して。
重里 はい。もしかしたら不謹慎な言葉になっちゃうかもしれないですけど、その日にすべてが終わってもいいぐらいの覚悟です。そうじゃないと勝てないとも思いますし。

――8ラウンドフルに拳を交えて、どんな印象を持ちましたか。
重里 まあ、好戦的で、気持ちが強いな、というのは感じましたけど。あの試合は自分が必死になり過ぎてて、山口選手のほうは僕のことをちゃんと見て、戦ってたなと。映像を見返せば見返すほど、感じますね。

――重里選手の距離は中・長距離だと思いますが、接近戦での激闘になりました。
重里 なんかね、接近戦が得意な選手なら、接近戦で上回ったら、お前は何も言われへんやろ、みたいなところがあるんですよ。相手を完全に打ち負かしたる、みたいなのが。それが裏目になることがあるのも分かってるんで。ジャンケンのようにグーで来るならパー、パーで来るならチョキでいいし、勝つための最善の選択をしないといけないです。

――そこが今回のポイント。
重里 そうですね。まあ、言葉にするとありきたりなんですけど、青く燃えるのが大事やな、と。赤く燃えるんじゃなく、青く、冷静に。あの日の気持ちを淡々とぶつけて、何が何でもやり返してやるという気持ちです。

――やり返してやる、という熱さも大事だし、燃えるような気持ちは持ちながらも冷静に。展開、状況に応じて、勝つための選択をすると。
重里 そうです。ああいう好戦的な相手なんで、打ち合わないといけない場面も絶対にあるとは思います。どんな勝ち方でも、何が何でも勝つという気持ちです。

佐々木会長とミット打ちをする重里(右)

■度重なるケガからの帰還
――大学で1度、ケガでボクシングを諦めないといけないことがあったと。
重里 ありました。ボクシングなんか無理、できませんって、はっきり言われました。いろんな先生から。

――ケガが重なったそうですね。
重里 まあ、最後は脚ですね。最初は中学生のときに右の大腿骨を疲労骨折して、で、治ったと思ったら、今度は左も。

――左も大腿骨ですか。
重里 大腿骨ですね。疲労骨折で。小さいときから減量みたいなこともしてたから、栄養の問題やら、いろいろ(原因は)あったみたいで。で、大学の1年のときですね。腰の(腰椎)分離症と(大腿骨の)疲労骨折が重なって。

――大学2年のリーグ戦には出ていますが、万全ではなかった。
重里 そうですね。1年のときは出れなくて、いろいろ空回りして、気持ちも腐ってて。治ったと思い込んでるけど、治り切ってなくて。で、最後は脚で、(医師から)もうアカンと。

――もうできないと言われたときは?
重里 信じられなかったですね。でも、時間が経って、じゃ、もう、辛い練習せんでもいいんやとなって、地元のアウトレットモールの店員さんとして働いてたんですけどね。でも、5歳のときからボクシングをやってきて、これしかないオレがこれからどうしていくんやろ、もうできないんか、練習に行くの嫌やなとか、そういう気持ちにもなられへんのか……。で、だんだん、だんだんやってる人たちがうらやましくなってきて。オレなら、もっとできるのに、こうするのにな、とか思い始めるんです

――試合の映像を見るのは辛くなかったですか。
重里 なんかね、見たくないのに見ちゃうんですよ。悔しかったっすね。一緒にやってた選手が活躍してるのを見るのは正直、悔しかったっす。で、親父に言われたんです。B級ライセンスだけでも取っとけや、アマチュアでこんだけのものを残してきたから、普通のもんには取られへんものを取れるんやからって。

――自分がやってきたことの証として。
重里 はい。で、脚は万全じゃないんですけど、仲里ジムに入って、トレーナーをさせてもらいながらテストに受かって。また1年ぐらい選手を見てるとね、やりたくなってくるんですよ。で、いろいろ治療を続ける中で、動いてない分、(脚も)よくなってきて。あ、あとね、僕、目も悪くしてて。高校のときに目の上斜筋というのを悪くして、それから物がずっと二重に見えてたんですよ。手術したらボクシングは難しくなる、と言われたから手術はしてなくて。

――目もですか……。
重里 そうなんですよ。で、ボクシングもできへんし、もう手術しようと思って、京都のすごい先生のところに行ったんです。そしたら「いや、手術したらボクシングできるよ」って。

――それは心に響いたでしょうね。
重里 響きました。光が射した感じですね。で、手術して、家族も来てくれるじゃないですか。車椅子で戻って、ちょっと話があるって、「オレ、もう1回、ボクシングしたいねん」って、そこで言いました。それが2019年。僕がデビューした年です。

プロ4戦目、重里(右)は世界挑戦経験もある黒田に大きな勝利

■黒田戦の裏側にあった井岡一翔、サラスとの縁
――1度は諦めたボクシングができることになって、ボクシングができる喜び、幸せを感じてきたのではないですか。
重里 いや、もう好きなことに没頭できることが、どれほど幸せなことかと感じてますね。でも、(2019年12月に)デビューして、すぐにコロナ禍になって、試合ができなくなっちゃうんですよ。1年後に2戦目、3戦目とやって、4戦目がまた全然、決まらなくて。そこでポッと出てきたのが黒田(雅之)選手との試合です。で、(仲里義竜)会長に返事をしてもらって、ラスベガスに行くんですけど。

――サラスさん(イスマエル・サラス・トレーナー)のところに。
重里 はい。僕がもともと5歳で入ったのが井岡ジムだったんで、そのつながりでサラスさんとは6歳、7歳の頃に知り合って。で、あれは2018年だから、まだトレーナーをしてたときですね。一翔くんの久しぶりの試合をロサンゼルスに観に行かせてもらったんですよ。

――アローヨ戦ですね。
※2018年9月8日、カリフォルニア州イングルウッドのザ・フォーラムで井岡が復帰したマックウィリアムズ・アローヨ(プエルトリコ)戦。
重里 そうです。一翔くんは、僕が小っちゃい頃からの憧れの存在で、ヒーローで、同じジムでかわいがっていただいた兄貴的存在でもあるんで。新たな地で勝負する一翔くんを応援したくて、行かせてもらったんですけど。そのときにサラスさんとも久しぶりに再会して、「また、いつでもおいで」と言っていただいてたんで。試合も決まらんし、行ってみようと思って。

――ラスベガス合宿を決めたのが先で、黒田戦の話が後なんですね。
重里 はい。で、ちょうど一翔くんが大晦日に(ジェルウィン・)アンカハス(フィリピン)と決まったときで、オレもサウスポーやけど、パートナーで呼んでくれへんかな、呼んでほしいなーとか、思ってたんですよ(笑い)。そしたら、サラスさんの奥さんが「カンタロウ、来てくれへんかな」と一翔くんが言ってるよ、と。日本に帰って、こっち(志成ジム)に来て。

――そうだったんですか。
重里 そうなんですよ。で、(コロナ禍対策でアンカハスが来日不可となり)一翔くんは福永(亮次)選手とやることになるんですけど、ずっとスパーリングをやらせていただいて。それで(その年明けに)黒田選手に勝たせてもらいました。

――素晴らしい試合でしたが、試合までの流れもすごいですね。
重里 ありがたかったですね。まあ、知ってる選手が活躍してて、歯がゆい気持ちもあったし。で、瑠衣(るい)と言うんですけど、妻とはデビューする前から付き合ってて、結婚も決めてたんで。いろいろ付き合わせちゃってる分、これに勝たんと(結婚は)諦めなアカンと。いろんな覚悟を持って臨んだ黒田戦なんで。

バッグ打ちでも佐々木会長が一つひとつの動きに目を光らせる

■いろいろな方のおかげで今の僕がいる
――移籍したのは、やはり井岡選手の存在が大きかった。
重里 間違いないです。僕は大学で東京に来させてもらって、こっちに知ってる選手も多い中で、ずっと置いていかれてる感があって、焦りみたいな気持ちがずっとあって。で、フィリピンの選手(ダンリック・スマボン)と引き分けた後に。

――もっと上を目指したいと。
重里 そうですね。一翔くんとのつながりで修平さんに見ていただけて、で、ジムには堤(駿斗、麗斗)兄弟、吉良大弥とか、どんどん上がってきて。今に見てろよ、今に見てろよ、と、いい意味で思わせてくれる環境は僕にとってはプラスですし。今は(大阪の会社に)アスリート社員としてサポートいただいて、ボクシングに専念させてもらえてるんですよ。もちろん、仲里ジムにも感謝してますし、応援してくれる方、一人ひとりに感謝してます。いろんな方のおかげで今の僕がいるので。

――心から実感しているでしょうね。
重里 はい。僕ひとりじゃなんにもできないです。

――瑠衣さんも東京についてきてくれて。
重里 そうです。いつも全面的にサポートしてくれてますけど、今回は特に「戦うで!」「絶対にやり返すで!」って、ほんとに毎日。

――いろいろな応援、支えがあって。
重里 応援してくれる人たちに言うんですけど、僕の中では「僕たち、重里侃太朗」なんですよ。だから、去年、味わった悔しさは僕だけのものじゃないんで、絶対にやり返しますから、その分、必ず返しますから、見といてくださいと言いたいです。

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