2020年5月19日火曜日

名勝負プレイバック 白井義男が日本初の世界王者 
歴史的な5月19日は「ボクシングの日」

 5月19日にはボクシング界にとって記念すべき1日である。1952年5月19日、夜の後楽園球場に日本人初の世界チャンピオンが誕生したのだ。今からちょうど68年前のきょう、白井義男はこの歴史的な勝利で、日本ボクシング史に永遠に名前を刻んだ。あらためてその偉業を振り返りたい。

現役時代の白井義男氏

 戦前の1943年にプロデビューした白井は、ほどなくして召集されて海軍航空隊に入隊。戦闘機の整備兵として働いた。戦後、プロボクサーとして復帰し、日拳ホールで練習していた48年ごろ、のちに師弟関係を築くアルビン・カーン博士がフラリと現れた。

 白井の才能を見抜き、指導を買って出たカーン博士だが、ボクシングの経験はまったくなかったというから驚きだ。理学士の学位を持つ博士の下地は、スポーツにおけるタイミングの重要性やコンディショニングについての独自の研究。このときはGHQの天然資源局のスタッフとして来日中だった。

 軍隊生活で腰を痛め、復帰後は3敗を喫するなど低迷していた白井は、カーン博士の指導を受けて、日本フライ級、日本バンタム級王座を獲得し、上昇気流に乗っていく。食糧事情の悪かった当時の日本において、博士が用意した食事で栄養状態が改善し、腰痛を克服できた、とのちに語っている。

 1951年に世界王者のダド・マリノ(米)と後楽園球場で初めて対戦。白井は「世界チャンピオンなんて雲の上の存在」と最初は断ったそうだが、結果は大健闘の1-2判定負け。自信をつけて半年後、敵地ハワイで再びノンタイトル戦を行い、2回に1度、6回に3度、7回に2度のダウンを奪って7回TKO勝ちを収めた。白井はのちにこの勝利を「私のボクシング生活の中でもベストバウトと呼べる」と話している。

 この時点で翌52年の世界タイトルマッチは決まっていた。当時、敗戦から日の浅かった日本にコミッションはなく、世界タイトルマッチを開催するため、関係者が急きょ日本ボクシングコミッションを立ち上げたことも記しておこう。

マリノvs.白井のポスター

 こうして記念すべき日本で初めての世界タイトルマッチが実現したのである。後楽園球場には4万人を超える観衆が詰めかけた。

 アメリカ人のカーン博士は試合前、白井にこう語ったという。

「日本は戦争でアメリカに負け、今の日本で世界に対抗できるのはスポーツしかないだろう。キミは自分のために戦うと思ってはいけない。日本人の気力と自信をキミの勝利で呼び戻すのだ」(ボクシング100年=日本スポーツ出版社より)。

 白井は強打のマリノに対し、持ち前のスピードをいかしてアウトボクシングを貫いた。7回、マリノの左フックを食らってゴングに救われたあと、カーン博士が「ウェーク・アップ、ヨシオ!」と叫んだ逸話はあまりに有名だ。

これで目を覚ました白井は15ラウンドを戦い抜き、世界チャンピオンベルトを日本に初めてもたらした。当時まだテレビ中継はなく、ラジオの聴取率は83%をマークした。

 白井は世界フライ級王座を4度防衛し、5度目の防衛戦でパスカル・ぺレス(アルゼンチン)に敗れて王座陥落。再戦でもぺレスに敗れてグローブを壁につるした。

引退後もボクシング界の顔として活躍した

 引退後はテレビ、新聞の解説者を務め、白井・具志堅ジムの名誉会長を務めた。身寄りのないカーン博士とは引退後も一緒に暮らし、カーン博士は1971年に死去。白井は2003年12月23日、80歳でその生涯を閉じた。

 白井が初めて世界チャンピオンとなった5月19日を、日本プロボクシング協会は「ボクシングの日」に認定している。この日にこだわって世界戦を開催し、王者ホセ・アルファロを下してWBAライト級王座を獲得したのが小堀祐介。2009年5月19日のことだった。


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