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ボクシングとっておき物語 往年の世界王者、花形進は牛乳おごって人生変える

2021年4月27日 18時54分

 マーベラス・マービン・ハグラーに捧げる追悼大特集となった最新の『ボクシングビート5月号』。色褪せたハグラーのポーズ写真の表紙が郷愁を誘う。4月号は視線を遠くに向けたホルヘ・リナレス(帝拳)の端正なアップ。「ボクシング雑誌らしくない」と評判の表紙から一転、古き良きボクシング雑誌の顔をした今号で、らしくない内容かつ読み応えがあったのが、おなじみの飯田覚士さんの『直撃トーク』だった。

左から花形会長、花形冴美、飯田覚士さん

 ゲストはIBF女子世界アトム級チャンピオンの花形冴美(花形)。今年3月18日、松田恵里(TEAM 10COUNT)と引き分けた2度目の防衛戦を最後に現役引退を表明、今後は小学校の先生を目指し、すでに昨秋から大学に入り直して勉強中という。

(自分は)「ボクシングでめちゃくちゃ輝かせてもらいました。今度は子どもたちが主役です。子どもたちを輝かせたいんです」と熱を込める花形に対し、2004年に東京・中野に開設した『飯田覚士ボクシング塾ボックスファイ』を中心に子どもたちの心身の発育・発達に力を注いできた飯田さんは――。個人的には、いつかまた新米教師として現場を経験した“岡庭冴美先生”との続編を読んでみたい、と思わせる内容だった。

 対談の中で初めて知ったのが、旧姓・田中冴美が“花形”のリングネームを名乗った経緯だった。てっきり自分から希望したものと思い込んでいたのだが、花形進会長から半分冗談のつもりで「お前、花形の名前でやるか?」と持ちかけられ、「自分はことの重大さもよく知らないから『ハイ、やります』みたいな」感じで決まったとは。

 ふたりのやり取りがまた、親子のように仲睦まじくて微笑ましい。確かに「自分から花形でやりたいと言った」と聞いたのは花形会長からで、いつか本人にその前提で話したら、あいまいにうなずき、微妙な表情をしたことがあったのを思い出した。

元世界王者で通算16敗は歴代最多

 奇しくも自身と同じ5度目の挑戦で世界チャンピオンになるとは花形会長も想像もしなかっただろうが、2008年8月のプロデビュー戦から12年7ヵ月の長きにわたり、“花形”を背負って戦ってくれた“孝行娘”に感謝しているのではないだろうか。

「何かを成し遂げて“花形”の名前を残したかった」。それが花形会長がプロボクサーを志した理由のひとつだった。「相撲もわりと強かったんだけど、オレは体が小さかったから」という十代の少年が「親戚のおじさんに勧められた」のがボクシングだったという。

 まさに七転び八起き、5度目の世界挑戦、62戦目でWBA世界フライ級チャンピオンとなった経歴もさることながら、歴代の王者で最多となる通算16敗(ガッツ石松の14敗、河野公平の12敗と続く)、4回戦を16試合(8勝5敗3分)、6回戦を11試合(5勝2敗4分)戦うなど、いまでは考えられないような戦歴をたどり、不屈の王者として名前を残した。

 昔の映像を見返すと、戦いのなかで培われてきたのだろう実戦的な手練れの巧さ、一本芯が通ったような体の頑健さを感じる。それは元WBC世界S・フェザー級チャンピオンの三浦隆司のおじでジムの後輩にあたる元日本フェザー級王者の三政直など、「体重差に関係なく、スパーリングをしていた」というところにもうかがえるように思う。

 1976年5月、通算8度目となる世界戦に敗れたのを最後にリングを去り、花形ジムを開いたのは1985年のこと。2000年には星野敬太郎をWBA世界ミニマム級チャンピオンに導き、史上初の師弟・世界チャンピオンを達成。指導者としても“花形”の名前を日本ボクシング史に刻むことになった。

 ジム開設までには現役引退から約9年かかっている。この間、焼鳥屋、スナック、不動産屋と働き口を転々とするなど、苦労も多かった。念願叶えたかげには思いがけない縁があったことを教えてくれたことがある。

引退後は焼鳥屋、スナック、不動産やと転々

 キーワードは「牛乳」。オープンな花形会長のことだから、これまでにも多くの方々に話されてきたことと思うが、この機会にあらためて振り返ってみたい。

 横浜・関内のスナックの雇われ店長に転身していた当時のことだったという。テレビのボクシング中継の解説者の仕事で名古屋を訪れる機会があった。ふと気がつくと、客席のほうからチラチラと視線を投げかけてくる男性がいる。花形会長に話しかけようか、やめておこうか、逡巡しているように感じた。まるで見覚えのない顔だったが、持ち前の気さくさで客席に赴き、こちらから声をかけた。

「どうも! 花形です!」

 聞けば、花形会長の古巣のジムの元練習生だったという。それから、いまも練習帰りに牛乳をごちそうしてもらったことが忘れられない、ずっと御礼を言いたかったのだ、と熱っぽく続けた。そういえば、と現役当時の古い記憶がよみがえってきた。まだ下積み時代のことである。ジムからの帰り道、途中にあった昔なつかしい食料雑貨店の店先で瓶の牛乳を飲んでいくのが習慣だった。確かにその元練習生と帰りが一緒になることが何度かあり、牛乳をおごったことがあったのだ。

 名古屋で実業家として成功を収め、立派になっていた男性に、普段は持ち歩かないはずが、なぜか持ち合わせていた名刺を渡し、現在の身の上を話すと「仕事でそちらに行くことがあるので、その時は必ず寄らせてもらいます」という。その日はそれで別れた。ほどなくして男性が花形会長が店長を務めるスナックを訪ねてきた。会話が弾むなかで「いつか自分のジムを持ちたいと思っている」と打ち明けた。すると思いもよらないことばが返ってきた。

「それなら今度、横浜に事業所を構える予定があるので、そのビルの1階をぜひジムとして使ってください」

 願ってもないような話だった。が、それから半年がたち、1年近くが過ぎても音沙汰はなかった。もともと半分期待していなかった。それまでにも何度か期待を持たせるようないい話はあり、そのたび落胆する、ということを繰り返してきたのだ。今度もまた……と、ほとんど諦めていた頃である。元練習生の実業家から連絡が入る。

 ようやく事業所の準備が整った。別の場所に拠点を構えることになった。もともと予定していたビルをすべて提供したいという話だった。それからトントン拍子に計画が進んだ。それが1階がジム、2階が合宿所、3階が花形家の自宅という現在の横浜・鴨居のビルであるという。

「人生なんて分かんねえもんだよな。牛乳がジムになっちゃったんだから。(おごったのは)2回、3回ぐらいのもんだよ。それにオレがもし、あの時、知らんぷりしてたら、ここはなかったかもしれないんだからさ」

 なるほど、花形会長は少し顔を見知っただけの私のような一介のライターにも「よおっ!」といった感じで気さくに声をかけてくれた。さりげなく懐に迎えてくれるような温かさ、飾らない優しさ。そんな花形会長自身の人柄の象徴が「牛乳」であり、花形ジムにつながったのだ。

大場政夫が生きていたら「教え子同士で試合したら盛り上がったのに…」

 問わず語りに貴重なエピソードを聞かせていただいたのは今年1月。話は自然、命日の近かった“永遠のチャンピオン”大場政夫さんに及んだ。

「めちゃくちゃパンチがあるとは思わなかったし、めちゃくちゃ巧いとも思わなかったけど、なにしろ(胸を指して)ここが強かったな。1発当てても2発、3発打ち返してくる。絶対に負けねえぞっていう気持ちの強さがもの凄かった」

 会長室にはずっと当時のポスターや公式行事の時のモノクロームの写真などが飾られている。花形会長が21歳、初めての10回戦だった大場さんが18歳の時のノンタイトル戦では判定勝ち。4年後、挑戦者の花形会長が25歳、3度目の防衛戦の世界フライ級チャンピオン大場さんが22歳の時の2度目の世界挑戦は判定負け。1勝1敗の終生のライバルへの愛情が感じられる。遠い目をしてポツリと言った。

「もし生きてたら、あいつのことだからジムをやってたと思うんだよな。今度はオレの教えた選手とあいつの教えた選手が試合したら、めちゃくちゃ盛り上がったと思うんだけどな」

 ひいてはボクシング、ボクサーへの深い愛情が感じられた。74歳のいまもミットを持つし、チーフセコンドとしてリングに入る。夜な夜なジムのサンドバッグで“花形スペシャル”と称する必殺の左フックに磨きをかける――。

 花形会長が60代の頃だったか。ジムにおじゃました時、ちょうど“ヤクルトレディ”と呼ばれる販売スタッフの女性から商品を買い、骨密度を測ってもらったところだという。得意げに「見るか」と結果の紙を見せてくれた。なんと30代。これもまた若い頃の鍛錬、そして「牛乳」の賜物だろうか。《船橋真二郎》

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