日本の現役ボクサー「部門別ベスト」を選ぶ
ビート5月号 S・フライ級はトップ井岡を田中が追う
2020年4月16日 17時10分
2020年4月16日 11時36分
いまから15年前、2005年4月16日の日本武道館に衝撃が走った。日本の若きサウスポー、長谷川穂積がWBC世界バンタム級の絶対王者ウィラポン・ナコンルアンプロモーションを破ったのだ。伝説の一戦を振り返る─。
WBCバンタム級王座を10度防衛し、その後WBCフェザー級、WBC・S・バンタム級と3階級制覇を達成して一時代を築いた長谷川だが、ウィラポンに世界初挑戦する時点でそこまで大きな期待があったわけではなかった。
24歳だった長谷川はデビューから5年半で戦績は19戦17勝4KO2敗。スピードと勘の良さが持ち味のサウスポーは、日本人キラーと言われたジェス・マーカからOPBF東洋太平洋王座を奪い3度の防衛をはたしていた。玄人筋からの評価が高い選手だったとはいえ、ウィラポンを前にするとその実績はいかにも頼りなかった。
ウィラポンは98年、平成の“カリスマ”辰吉丈一郎に完勝してタイトルを獲得すると、再戦でも辰吉を無慈悲なまでに打ち負かした。その後ものちのWBC・S・バンタム級王者、西岡利晃の挑戦を4度退け、日本のファンに圧倒的な強さをこれでもかと印象付けていた。
感情を露にせず、正確無比に相手を叩きのめす姿からついたニックネームはデスマスク。ここまで9年間無敗。14度の防衛を成功させている36歳の絶対王者を前にしては、だれが挑戦者であっても“見劣り”するのは当然だった。
しかし、試合が始まってみると、長谷川は軽快なフットワークでリズムを刻みながら、テンポよくパンチを繰り出して優勢に試合を進めた。西岡を苦しめたウィラポン得意の右に速い左ストレートを合わせたのだ。
百戦錬磨のウィラポンは中盤、当然のように攻勢を強めた。5回以降、ウィラポンはボディ攻撃を軸に流れを引き寄せにかかる。長谷川は左の精度が落ちてくる。流れを失いかけた長谷川は9回、左フックを決めると、10回以降は足を使うのではなく、真っ向から打ち合って勝利に突き進んだ。
日本武道館はグングンとヒートアップ。長谷川は鉄のハートを誇示し、一歩も引かずにあのウィラポンのアタックに対抗する。ウィラポンの強さを知る者なら興奮せずにはいられない。鳴りやまない長谷川コール、ウィラポンの獰猛なアタック、それを押し返す長谷川の高速コンビネーション。打ち鳴らされた試合終了のゴングは、大歓声にかき消された。読み上げられたスコアは115-113、115-113、116-112で長谷川の勝利。日本武道館に集まったファンの表情には、歴史の証人になりえた満足感であふれていた。
「(タイトルを獲ったことより)ウィラポンに勝てたことの方がうれしい。誇りに思います…」
殊勲の24歳は試合後、腫れた顔に笑顔を浮かべてそう口にした。この試合は2005年の年間最高試合に選ばれた。
7歳で元プロボクサーの父、大二郎さんからボクシングの手ほどきを受け、高校を留年してから本気でプロボクサーを目指した。アマチュア経験はなく、プロデビューから5戦で3勝2敗。ハーバーランドの時計店でアルバイトをしながらボクシングに打ち込み、徐々に才能を開花していったものの「派手さがない」というのがキャリア初期の長谷川の印象だった。
事実、ウィラポンから王座を奪い、世界チャンピオンになった当時の長谷川は「地味なチャンピオンでええです」と言っていたものだ。しかし、長谷川穂積が地味なチャンピオンのまま終わることはなかった。ウィラポン撃破という大仕事は、これから始まる長い、長い“長谷川伝説”の始まりに過ぎなかったのだ。
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